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生活の一部の「東海道」


 私は、大学に向かう途中「東海道」を通ることがある。「東海道」は江戸時代の五街道の一つであり、東京の日本橋を起点に京都の三条大橋までのおよそ500㎞の距離があり、歌川広重作の「東海道五十三次」でも知られている53の宿場が存在したといわれる。
 本学のある磐田には「見附宿」(第28番目)が存在しており、当時の賑わいを見せていたようである。国道1号線を袋井方面から磐田に向かって車を走らせると、「これより見附宿」と書かれた、大層大きな看板を目にすることがあるであろう。広重作の絵をみると、「見附宿」は「天竜川の渡し舟」が描かれている。現在では「天龍川渡舟場跡」の石碑があるだけで、車の往来が激しいところになっていた。江戸時代には多くの方がこの川を渡りながら、美しい眺めに心が浸ったのであろうか。天龍川では昨今、週末になるとBBQ(バーベキュー)などを楽しむ家族連れが目立つようになり、現実を忘れて過ごせる「憩いの場所」になっている。
 私はこの東海道のわずか数Kⅿを通勤で使用しているのみであるが、関東地方から関西地方への交通の大動脈であったことは間違いないであろう。
 関心を持ったのは、いまの自宅の近くを旧東海道が走っていることに気付いたことである。
 昨年の基礎ゼミの時間を利用し、街道沿いにある「見附学校」を訪問見学し、学生と共に磐田市の学校教育史や近代建築について学ぶことがあった。参加した学生らの感想の中に、「こんなところに昔の学校があったとは知らなかった」とか「あることは知っていたけど、小学校の建物だとは思わなかった」、「小学校とは思えない懈怠な建造物である」といった回答が多く、学生らの地元の歴史的建造物への関心の少なさに気付かされた。
 また東海道には多くの「街道松」がいまもなお残されている。隣県の愛知県出身の私であるが、帰省する際に愛知県から静岡県に向かうなかで、さまざまな地区で街道松がいまもなお健在であることに気付く。多くの先人たちもこの道を生活の一部として使用していたことを考えると、当時の人々が後世の人々にも大切な道路であることを教えてくれているように思えてならない。
 東海道にはおよそ4㎞ごとに「一里塚」が置かれており、人々がこれまで進んできた道のりがわかるようにもなっていた。最近では、自家用車で東海道を走行中に「一言坂の戦跡碑」をふと見つけることがあった。調べてみると、1572年に徳川家康と武田信玄が戦った「三方ケ原の戦い」の前哨戦であったところだそうで、熾烈な戦いが繰り広げられた場所であったという。また「一言坂の戦跡碑」より西に200ⅿほど車を走らせると、「挑燈野」(ちょうちんの)と書かれた石碑が立っている。三方ヶ原の戦いで敗れた徳川家康の軍が、武田信玄の軍に追いつかれそうになった際に、地の利をいかした徳川家康が、夜深くに「提灯」の明かりにより、武田の軍勢をおびき寄せることに成功し、ぬかるみの沼になっていたことから武田軍の武士らは足を取られて、次々に打たれたという伝説がある場所だといわれる。徳川の軍勢はこれにより無事浜松に引き返すことができたといわれている。
 生活の一部として東海道を使用している私には、日々の生活のなかにも、歴史を学ぶことがあることに気付かされた。今後も時間をみつけて、浜松から磐田にかけての生活圏の範囲内で歴史を感じさせるものにふれるようにしていきたい。