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No Eat, No Life


No Eat, No Life
経営学部 助教 日隈美代子




 人間は生まれてから死ぬまで、ずっと何かを食べて生きていかなければなりません。80歳まで生きるとしてざっと計算すると、一生のうちに8万7千食以上は食事をとることになります。とはいえ日々の生活に追われると、なかなか毎食を大切にしていくことができなくて、いい加減な食事になってしまうこともままあります。けれども、食べることをおざなりにしていると、気持ちも体調もいまいちになる自分がいて、「ああ、いかんいかん」と自省することになります。
 食事以外にも、何かを食べることは日々の楽しみの一つという人も多いと思います。かくいう私も、おやつを食べ、おいしいお茶を飲んで、ほっと一息つくのは日々欠かせません。最近では、おやつやお菓子、という言い方ではなく、スイーツと呼ぶことも多いかと思います。コンビニエンスストアで売られている生菓子等は、コンビニスイーツとして多くの人たちに愛されていますし、一流のパティシエコラボ商品など、びっくりするくらいおいしくてついつい買い求めてしまいます。他にも、見た目も美しかったり、かわいらしかったりする和菓子などもあって、ちょっとしたご褒美感覚で素敵なお菓子を楽しむことができ、うれしい限りです。
 おやつといえば以前、本を読んでいた時に、おやつという呼び名ではなく、「むしやしない」と書かれているものを目にしたことがあります。大阪のある日本料理店でも、お品書きに、「軽食」ではなく「むしやしない」と書いているのを見かけたこともあります。ちょっと面白い呼び方だなあ、と印象深く感じた半面、「おなかの虫ってどんな形をしているのかしら、怒った時に暴れる腹の虫とおなじなのかしら」とぼんやり考えてしまいました。また最近出版されたお菓子作りの本は、お菓子やおやつ、スイーツの代わりに「お食後」と書いてありました。これもまたしゃれた呼び名だなあ、と感じ入りました。
 食事についても、ご馳走という呼び方をすることがあります。心を込めて準備したというのが、字面から伝わってきて、なんだかあたたかくていいなあと感じます。茶道では、お湯が沸く音や、白湯もまたご馳走と考えます。食べ物だけでなく、それをとりまく空気や言葉さえも、ご馳走ととらえることに、食べるという行為にたいする人間の思いの深さをしみじみ感じます。決して豪勢なものでなくても、食べる人のことを思い差し出される食べ物は、それはきっとご馳走なのだと思います。
 そういえば、イタリアやギリシャでは、大衆食堂のことを「タベルナ」と呼びます。わかっているけれど目にするたびに、「食べてほしいのに食べるなって、面白くてつい食べたくなるじゃないか」といつも思います。これもまた、食の面白さかもしれないなあ、と思います。

 おいしくものを食べることは、調味料メーカーのキャッチフレーズにもあるように、自分をつくることと自分を生かすことに直結する行動だといえます。食べることで、心も体も元気にできるなんて、よくよく考えてみるとすごいことだと思います。そして、ただただエネルギーを得るのではなく、食べることを楽しむために、味覚以外の感覚も使い、「心」とその「時間」や「空間」をも豊かにする人間って、不思議だなあ、面白いなあと感じています。