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先入観と判断


先入観と判断
経営学部長
佐藤和美

「スプーンは男性、フォークは女性」と教わった。
 ふくよかな曲線美を持ち、なんでも優しくすくい上げるスプーンがなぜ男性。鋭いとげを持ち、食材に攻撃的なフォークがどうして女性なのか。こんなことをつらつら考え始めるとドイツ語の勉強がはかどらなかった。ドイツ語の名詞には性があり、それが文法を支配する。性を覚えるのに私の感性と先入観が邪魔をした。ちなみにナイフはどちらであろうか。中性だ。

 それはさておき、今日のリレーエッセイは先入観が公正な判断を曇らせてしまう話をひとつ。

 『十二人の怒れる男』は、監督シドニー・ルメット、主演ヘンリー・フォンダの1957年アメリカ映画であるが、日本でも注目すべき映画としてファンは多い。物語は、スラム街で生まれ育った一八歳の若者が父親殺しの容疑者となる。裁判で若者は自分のアリバイを証言するが、一方で彼の犯行を証言する者もいる。評決を委ねられた十二人の陪審員のうち、当初十一人の陪審員が有罪を主張した。白熱した議論の末に目撃等の証言の信憑性が覆され、最後は無罪の評決にいたる。
 当初の「有罪」を誘導した原因は、若者がスラム街の育ちであることへの偏見、父親と不仲であったという動機の思い込み、それらが先入観となり目撃等の証言に疑問を抱かせなかったことにある。

 私たちは知識や経験をもとに物事を考える。自分の得た限られた知識や経験は時代、地域、文化、さらにいえば言語や社会制度の中に囚われた先入観になることも心得ておかねばならない。先入観は個々の判断を速めるというメリットがある一方で、客観的で妥当性のある判断を阻害し本質を見抜く障害となるリスクもある。

 私たちは既に様々な知識や経験値を有している。何かを判断するとき、赤ちゃんのように無垢の目で物事を見ることは難しい。そうであれば私たちにできることは二つ。一つは、デカルトの言葉であるが「方法的懐疑」を真似る。少しでも疑いうるものは疑い、真理を探す姿勢を採る。上述の『十二人の怒れる男』もこの方法で真実に至った。二つめは、幅広く豊富な知識と経験値を獲得し、多角的な目と柔軟な思考をもつ。自分にも無知の面があることを知ったうえで、物事を理解し判断する姿勢を大切にしなければならない。これは自戒でもある。
以上
(このエッセイは、『広報いわた』No.0103、平成21年7月15日号、磐田市発行の「人権コラム」欄掲載原稿に加筆修正したものである。)