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「道徳」は何を教える「教科」なのでしょうか?


教授 浅羽 浩(教育課程、教科教育法、教員養成)
 先頃、中央教育審議会が、小中学校の「道徳の時間」を「特別の教科」とすることを文科大臣に答申し話題を呼んでいます。

 我が国の道徳教育は、これまで「道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度などの道徳性を養う」ことを目標として、1958年の『学習指導要領』改訂により設けられた「道徳の時間」を要として、教科・特別活動(学級活動、生徒会活動、学校行事)等、学校の教育活動全体を通じて行うこととされてきました。こうしたことから、「特別の教科」とすることは、戦前の「修身」が徳目主義による教育となり課題を残したという反省に立ち、戦後、「道徳」を「教科」として教えるのでなく、すべての教育活動を通じて道徳性を涵養するとの考え方に立ち実施してきた経緯に逆行するのではないかという危惧からの議論があります。

 また、学習の評価に関わる議論もあります。これまで「領域」として行われてきた「道徳の時間」を「特別の教科」とすることにより、学習の到達度を評価することが求められることになるからです。「教科」として成立するための要件としては、一般的に、免許状を所有する教員が担当する、教科書がある、数値による評定が行われる等が挙げられます。今回は、成績評価の在り方が数値ではなく記述式によるものであること、道徳の免許状を設けないこと等により、「特別の教科」と位置づけるものと解されていますが、たとえ、記述式によるものであれ、道徳性が養われたかどうかを評価できるかどうかが議論となっているのです。

 いずれも重要な指摘です。しかしながら、より重要なのは、「果たして道徳を教えることはできるのか」「道徳を教えるとは、何をどうすることなのか」という観点からの検討ではないでしょうか。人間は、「より善く生きたい」という願いを持ち、一体どのように生きることが「より善く生きる」ことになるのかを考えて生きています。「道徳」の教育内容は、こうした、人間としての「善さ」を追求することに深く関連しています。 

 現行の『学習指導要領』では、「道徳」の教育内容の柱として「主として自分自身に関すること」「主として他の人とのかかわりに関すること」「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」「主として集団や社会とのかかわりに関すること」を掲げるとともに、具体的に、思いやりの心、寛容の心、感謝する心、さらには、奉仕の精神、父母や祖父母への敬愛の念、郷土を愛すること、日本人としての自覚を持って国を愛すること等を記しています。こうした内容だけに着目すると、戦前のいわゆる徳目主義による道徳教育を想起する方もいらっしゃるかもしれません。しかしながら、十分留意したいことは、『学習指導要領』には、上記の内容に加えて、「真理を愛し、真実を求め、理想の実現を目指して自己の人生を切り拓いていく」ことや、「正義を重んじ、誰に対しても公正、公平にし、差別や偏見のない社会の実現に努める」こと等が記されていることです。

 今回の答申では、これまでの「道徳の時間」の学習内容を踏まえつつ、新たに生命倫理や情報モラルといった今日的な課題も扱うこととされています。こうした課題は、高等学校の教科『公民』の科目「現代社会」「倫理」でも扱われており、指導に当たっては、適切な資料を用いて、「公正・効率・正義・幸福」等の観点から、多面的・多角的に熟慮させることが求められています。環境倫理、生命倫理、情報倫理等の現代社会が抱える諸課題は、いずれも、経済、政治、社会、文化、法、国際社会、倫理等の様々な分野に関わる課題であり、「科学的な探究の精神に基づいて」考察する力が必要です。

 このように考えてみると、「道徳的な心情」を養うために、感動的なエピソード等を教材として道徳教育をすることには一定の意義があるものの、道徳的な「心情」「判断力」「実践的意欲」「態度」を養い、「より善く生きる」ためには、「善さ」とは何かを知ることが大前提として必要であり、そのためには、事実は何か、それから何が言えるのか等の吟味を重ね「真理」や「正義」を粘り強く探究することこそが求められます。つまり、道徳教育の目標は、教育そのものの目標と重なるのではないでしょうか。