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愛知大学の豊橋学舎に関連した散漫な話


教授 杉山三七男 (経営管理論、経営組織論)

 私は、これまで柔道なるものをしたことがありません。痩せていて力もなく、もし柔道を行ったとすれば直ぐに救急車を呼ぶことになってしまうでしょう。しかし、ちょっとした経緯から女子柔道部の顧問をすることになってしまいました。そうではあっても、しばしば男子柔道部とも行動を共にさせられています。その関係で色々なところへ連れ回されているのですけれど、先日は、男子柔道部の合同練習のために一泊して豊橋市にある愛知大学の豊橋学舎へ行ってまいりました。以前から伊良湖岬に遊びに行くときにその横の道をよく通ってはいるのですけれど、実際に大学内に入ったのはこれが初めてです。松や檜などの緑に囲まれた趣のあるすばらしい学校でした。木々の中には樹齢が二百年を超すような古木も多くあり、木によっては県か市の指定を受けていて切り倒すことのできないものもいくつかあるそうです。この愛知大学は、本来ここが本拠地です。しかし現在では、名古屋の方に七千人ほどの学生がいるのに対し、豊橋は二千人ほどしかいないそうです。

 愛知大学の豊橋学舎は、第二次世界大戦まで陸軍の師団の兵舎があったところです。正門を入ったところに古い建物が残っていますが、それが師団司令部です。そこの看板に、師団司令部で現存しているのはここだけのようなことが書かれていました。その気で見てみると、大学を囲む周りの塀もコンクリートだけの作りで、ほとんど装飾のない武骨なものです。いかにもそれらしい。かなり黒ずんでいて歴史を感じます。

 以前のエッセイでも述べたように、戦時中私の親父は工兵としてここにいました。ある時、この豊橋から浜松の中田島砂丘まで背嚢を背負って行軍をしたそうです。五年ほど前、その親父がまだ生きている時に中田島砂丘へ連れて行ったことがあるのですが、戦争当時の砂丘は今よりかなり大きかったそうです。その砂丘で軍事訓練をしている時、非常に高い上空をキラッと光る金属の粒のようなものが二つゆっくりと北東の方向に移動していったそうです。それがアメリカ空軍の爆撃機であるB29です。すでに情報があったのでしょう、親父はそれがB29であることが分かっていたようです。もしかすると、それがB29の日本本土への最初の飛行であったかも知れません。偵察目的なのか、その時空爆が行われたと親父は言っていません。それにしても、日本の陸軍航空隊も海軍航空隊もその高度を飛行する能力のある戦闘機はなかったのでしょうか、まったく迎撃はしていないようです。たとえすでに制空権を失っていたとしても、これでは戦にならないでしょう。ボクシングのサンドバックのようにただ打たれるだけです。実際その後、日本の多くの都市がほとんど抵抗することなく空爆され続けるのです。

 さて、陸軍の兵舎は大学に変わってしまいました。では、この地区から軍事力は消えたのでしょうか。実は、現在北の豊川市に陸上自衛隊の駐屯地があります。この部隊はなぜあるのでしょうか。別に自衛隊に反対する訳ではありませんが、この部隊が何を守るために置かれているのか知りたいですね。