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もったいない私?


※職位や内容は投稿時のものです

2022年5月13日更新

 なかなか痩せない。毎晩、しかも寝る前にお酒を飲むことがその一因と思われるが、子どもが残すものを「もったいない」からと食べてしまうのが最大の原因であろう。経済学的には満足を得た時点で、食べ残しても何の問題もないのだが、むしろ「満足する」ために、おいしいものを食べているはずなのだが、やはり日本人なのか、「もったいない」からと子どもの食べ残しを食べてしまう。貧乏性なのか。子どもの頃、お茶碗に米粒1つ残しても祖母から怒られた。「もったいないからちゃんと食べなさい」と。その影響か。

 「もったいない」とは仏教用語である。「勿体」と書く。勿体とは「本来のあるべき姿」のことで、「勿体ない」とは「本来のあるべき姿ではない」ということである。お皿に盛られたお母さん手作りの料理は全て食べることが本来のあるべき姿であり、クローゼットにしまわれている少し高級な洋服でさえも、着るのが本来の姿である。持っているのが目的ではない。しかし、いざ着ようとすると、色落ちしていたり、場合によっては虫が食っていたり、もう似合わない歳になっていたりする。私の場合は愛猫が爪をかけ、お気に入りのジャケットも悲しい姿になっている。もったいない。もっと早く着ておけば良かったと後悔する。

 考えてみれば人間それ自体がもったいない存在と言える。仏教では「一切衆生悉有仏性」と言って、全ての生きとし生けるものには「仏性」が存在すると考える。宗派によっては石ころにさえも仏性が宿っていると考える。人間の場合はなおさらである。全ての人が仏のように生きられる可能性を秘めるのである。

 しかし、江戸初期の仏僧鈴木正三、いわゆる旗本から僧侶になった人物だが、その正三に言わせれば、人間は三毒、すなわち、「貪欲・瞋恚・愚痴」により病に冒され、仏性通りには生きられないとされる。金銭欲であったり、名誉欲であったり、妬みであったり、そんな欲望に邪魔され、本来持っている仏性、わかりやすく言えば、仏になる種とでも言おうか、それを育てられずにいる。満ち満ちた煩悩により、我々は仏性通りに生きることを阻止されているのである。だからこそ、正三は、仕事に励めという。職業に打ち込めという。正三にとり、職業に打ち込むことは仏行であった。我々の周りにいる慈愛に満ちた人、「あの人は人格者」と言われる人は、仕事に専心することで、三毒を打ち払ったのか。私も、もう60が目の前である。そろそろ三毒とおさらばしなければいけない。褒められる生き方をしなければいけない。まだ私の中に秘める仏性、仏になる種は生命力を保っているのだろうか。一生懸命、仕事をしよう。