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風は吹いたか


教授 天野利彦 (国際情報学、文学、文明学)

 今年3月4日から9日までフランスのパリを訪問しました。毎年「国際理解A」という講義科目を担当し、欧州の現況について話します。それで、できるだけ最新の現場の空気にふれておきたいという気持ちがあります。さらに昨年は英国での欧州連合離脱を問う国民投票から始まって、年末のアメリカ大統領選挙でのドナルド・トランプ氏の当選にいたる、いわゆる「反グローバリズム」の波が先進諸国を席巻したこともあり、今年さまざまな国政選挙が予定されている欧州政治の風向きを現地で知りたかったのです。

 欧州統合の一方の牽引車であるフランスでは春に大統領選挙と国民議会選挙、もう一方の牽引車であるドイツでは秋に連邦議会選挙が実施されます。年明けから本命視されていた大統領候補の醜聞の噂が吹き荒れたフランスでは「移民反対」「将来の欧州連合離脱」を唱える国民戦線のルペン候補の人気が急速に高まっているというニュースが、メディアを賑わしていました。やはり「反グローバリズム」の風がフランスでも強く吹き荒れているのであろうかという思いを抱えて、渡仏の旅に発ちました。

 さて、今やフランス大統領選挙は終わり、結果はすでにみなさんのご存じのとおりです。フランス史上最年少のエマニュエル・マクロン大統領が誕生し、直前に国民戦線リーダーの座を降りて決戦に臨んだマリーヌ・ルペン候補は健闘むなしく敗北しました。しかし現地視察を終えて帰国し、さまざまな人から「どうだった?」と聞かれた私は、「盛り上がっていなかった」とか「白けていた」と答えるしかありませんでした。(日本でもフランスでも見られた)メディアでの熱気あふれる喧々諤々の論評とは異なり、現地の人々はどうも冴えない、はっきりしない表情の人ばかりでした。選挙後、「選挙で勝ったのは、棄権・白票・国民戦線だ」との評もありました。たしかに棄権と白票は多く、大統領職こそ勝ち取りませんでしたが国民戦線の得票率は大きく伸びました。大きな風は吹きませんでしたが、反グローバリズムへの静かな支持はフランスでも「目につきにくい」ところで広がっているようです。

 欧州統合はフランスにとって古くからの夢でした。アメリカ合衆国初代大統領のジョージ・ワシントンは独立戦争に義勇軍として参加したラファイエット侯爵に宛てた手紙で、いつかアメリカ合衆国のようなヨーロッパ合衆国ができると励ましていました。またロマン派の詩人で小説家のヴィクトル・ユゴーも演説でヨーロッパ合衆国についてふれています。フランス人にとって欧州統合に反対するのは難しいはずです。

 また近代の始まりを画す革命に成功し、高らかに人権宣言を発したフランスにとって「移動の自由」の権利を法的に制限する可能性がある「移民・移住の制限」は大変デリケートな問題です。移民希望者が「人権」を主張したら、どう扱うべきなのか。ことは、いずれもフランス人の、フランス文化の、フランスの歴史の尊厳に関わる問題となりえます。

 私が大学生になって初めてフランス語を勉強し始めたときに教わって、いまだに忘れられない言葉があります。「フランス人は心を左に持つが、財布は右に持つ。 Le Français a le cœur à gauche, mais le portefeuille à droite. 」(後に調べたら19世紀のAnatole de Monzie の言葉でした。)フランス語では「心臓」も「心情」も”cœur “という言葉で表現できます。いわゆる進歩的・左翼的であることはフランス人にとってはある意味自明の立場と見なされます。が、経済観念はとても保守的、フランスの小説ではしばしば「吝嗇なフランス人」が描かれます。

 今回の大統領選挙で現れた分裂的で優柔不断な国民意識、そして私がパリ市中で感じた市民の白けた雰囲気の原因は、これかもしれません。「心」と「財布」、建前と個人の処世の分裂や断絶が、風もなく、しとしとと降る雨のような表情を彼らに強いていたような気がします。