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浅間の風と地中海の風と


教授 天野利彦(欧米文化研究、記号学、国際情報学)

 磐田は遠州の空っ風が、特に冬、強く吹く土地柄である。しかし私は風が好きだ。風の中にさまざまな声が聞こえる思いがするからである。

 『風立ちぬ』という映画を見て、ふと思い立ち、この夏、信濃追分の堀辰雄記念館を訪れた。晩夏とはいえ、ゆっくりと歩いても汗ばんだが、標高がある分、さすがに木陰は涼しく、乾いた風が心地よく顔に当たる。記念館を一通り見学したが、むしろ私は自分がこの風に身を曝してみたくて、この地に来たのだと思った。

 堀辰雄の小説『風立ちぬ』は、ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』の、堀自身が「風立ちぬ、いざ、生きめやも」と訳した一節からその表題を取っている。日本語訳としての適否について議論があるのは承知しているが、私はこれはこれでいいと思う。解釈抜きの翻訳などあり得ないからである。

 ただそれにしても、と思う。浅間の風と地中海の風は違う。ヴァレリーの歌う海辺の墓地は彼の故郷、地中海沿岸の町セット郊外の丘にある。そこに吹く風は、冬ならばミストラルと呼ばれる強い季節風、地中海から吹く海風である。この詩で歌われるさまざまな形象は、ゼノンにしろヒドラにしろ、古代ギリシャに由来するもの。当然、そこに吹く風も古代ギリシャ人が自然界を構成する四大元素、四大(したい)と呼んだものの一つプネウマを彷彿とさせ、それは生気である「息」を吹き込むものである。

 古代ギリシャ哲学はその後、自然現象から、生き方を問う人生哲学へ、さらに本質・理念をもとめるイデア論へ変貌する。プラトンのいうイデアとは畢竟、ロゴス(言葉)の生んだ普遍的な意味の世界である。ここから「ロゴス中心主義」が長くヨーロッパを支配することになり、理性の普遍性への信仰が19世紀の産業革命・工業化を経て、世界に拡大してゆく。一方で、追い詰められた人間的な感情や自然への憧憬は、芸術の世界に逃げ道を求めていった。ロマン主義は、理性に対する感情の反抗であった。それはロゴスという不死の神に対する、神と人間との間に生まれた英雄たちの戦いのようにも見える。しかし死すべき運命を持つのも半神たる英雄たちの宿命であった。

 20世紀に入って理性に挑戦したのは、感情ではなく肉体である。自然界の一部として、かつては理性による支配の対象であった肉体や身体が、それ自体としての意義を主張した。それは理性による認証によって保証される意義ではなく、むしろ理性を生み出した母体であったのだ。例えばアスリートの運動が美しいのは、理性によって生み出された不死の機械のような無限の能力を持つからではなく、限界ある輪郭の中で、生命が躍動しているからである。

 21世紀に入り、我々は振り出しに戻ったようである。理性は相変わらず、すべてのものを自分のイデアの世界に回収しようと拡大を続け、フラットな世界を作り続ける。しかし我々が住まうこの世界はイデアの世界ではなく、乾いた風、湿った風の吹く、大いなる自然の世界なのである。我々は風の中に生きている。