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便利さの文化と危険文化~「安全文化」の逆説的視点として~


特任教授 大日方 重利(臨床心理学、カウンセリング(教育・産業))

 私は本学に採用させていただき1年半余り経ち、人的にも自然的にも大変居心地がよく大満足の日々であるが、反面正直なところそれ故にといってもよいかもしれないが、国内外の社会情勢さらに地球全体の自然環境などについての危うさを強く感じようにもなっている。ここでは、むしろ地域や国内の産業・経済の発展に関する明るい未来を構想することが相応しいと思うが、私の専門(心理学)からは荷が重すぎるし、またこの方面を専門とされている諸賢の先生方が多いということもあるので、敢えて危うさや脆さという負の部分について考えてみたい。

 まず人類の特徴として様々な事柄が言われているが、人間は自らの生活の豊かさや充実を求め続ける行為を行うことは、地球上で比類のない存在といえる。つまり衣食住をはじめ全ての面での快適さのための手段として、古代からの狩猟や農耕のための道具(トフラーのいう農業化)から始まり、近代における工業生産や輸送・通信などのための機械(同じく、工業化)さらに現代における原子力や情報技術(同じく、情報化)などの技術的発展は、遍く生活の快適さや豊かさを追求してきた結果である。こうして人類は、地球上のあらゆる場所に人工物を建設したり持ち込んだりして、いわゆる人類の文化を普及させ、衣食住など生活の全てにおいて、地域差も大きいとはいえ、豊かさや快適さをもたらしてきている。

 しかしながら、このような文化的発展の面とは裏腹に、長い歴史の間に人類は負の遺産も蓄積し続けてきたことも事実である。このことは多くの例を挙げなくても、地球の温暖化や環境汚染を挙げるだけで十分であろう。これらを含めてすべての現象が、100%人類のなせる業ではないとしても、ほとんどそれに近い責任が人類の行為に帰するといえるであろう。したがって、人類を特徴づける文化の創造は、生活の快適さや豊かさを目指す文化ではあるが、その反面には人類にとって厄介で危険な面も孕んでいるという揶揄を込めて、人類が追求してきたのは「便利さの文化」と呼ぶこともできる。同時にまた、近年は社会生活、産業、自然現象など様々な面における安全性の意識や対策が強調されるようになってきて、いわゆる「安全文化」の構築が重視されるようになった。

一方見方を変えれば、上記の「便利さの文化」の背景には、ほとんど常に大小諸々の危険も伴い、これは人類が便利さを追求してきた結果であり、「便利さの文化」とは「危険文化」であると言い換えることもできよう。つまり人類が一貫して信奉し追求してきた「便利さの文化」には、常に安全性と危険性の二つの面が共存しているということである。この両側面は、理屈の上では一方が高まれば他方は低下するといえるであろうが、実際に人間が、作られた人工物にどのように関わるかというヒューマン・ファクターを含めて考えれば、決して単純な問題ではないことが分かる。例えば、どんなに丈夫かつ安全な機械であっても、それを操作したり使ったりする人間の側の取り扱い上のミスにより、機械が動かなくなったり、故障したり、さらには大き事故を引き起こしたりする。つまり、機械そのものの安全性とそれを取り扱う人間による安全性(正確には安全行動)のそれぞれによる事故に注目すべきである。このような事故は、日用品の使用中でのちょっとした怪我から、鉄道や航空機さらに原子力発電所などの事故による被害まで大小広範囲にわたって見られる現象であり、私が「危険文化」と名付けている内容の一部である。すなわち「危険文化」には、作られた物やその機能そのものにおいて既に内在する物理的危険性(例えば乗り物は人に衝突すれば負傷させるという潜在的危険性)と、その物の操作のミスによる人為的危険性とに分けることができる。この後者は、上記のヒューマン・ファクターによる危険性のことであり、周知のごとく一般にヒューマン・エラーに起因する危険性である。なお、近年建造物の保守点検を怠ったために生じる崩壊事故や、かなり危険性が高いことが予想される土地に建てられた住宅が水害のために倒壊するといった被害も起こっているが、このような場合も、人間による直接的な操作ミスではないとしても、人間による監視や判断のミスが大きな原因とされ「人災」とも言われることからして、私は広義のヒューマン・エラーと見なすべきと考える。したがって、人間が作った物のほとんど全てにおいて、ヒューマン・エラーによる危険性が潜在しているといえよう。

 一方このヒューマン・エラーを避けるための装置(システム)も開発されてきている。たとえば航空機の離着陸の際に、装置の指示と航空管制官の指示が食い違っている場合には、操縦士は装置の指示に従うように義務付けられているという。以前は管制官の指示に従うという規則であったが、その指示が間違っていたために(ヒューマン・エラー)重大な事故が起きそうになったことによる規則変更といわれている。しかしながら、安全のための機器や装置が完全に作動し、プログラム通りの指示を出したとしても、その操作過程において人間が入力ミス(ヒューマン・エラー)を犯すこともあり、そのために重大な事故が引き起こされる場合もある。たとえば以前のテレビ番組において、外国の航空機の操縦士が山岳地帯での安全飛行のために自動操縦に切り替えた時に犯した入力ミスのために、飛行空路が間違ったものになり、山岳に衝突炎上したという事件が放映されたことが思い出される。さらに、スリーマイル島の原発事故(1979年)やチェルノブイリの原発事故(1986年)のいずれにおいても、運転員の判断ミスや怠慢(安全規則違反)などのヒューマン・エラーの存在があったといわれている。その後現在では、そのようなヒューマン・エラーを防止するための二重三重の対策が講じられているといわれているが、それでもヒューマン・エラーを皆無にすることができると言えるであろうか。

 もっと卑近な場合でも、つまり世間にあまた在る各種の工場、事業所、施設、さらに各家庭においても、何らかの器具・機械の操作の誤りや怠慢などにより、火災や爆発などの事故が後を絶たないのが現実である。世間に知られないとしても、危うい状況になって大事故寸前にまで至ったというようなことは、毎年全国的に数限りなく起こっていると考えられる。

 そのため近年、事故防止や安全対策のために各方面において、技術的なシステムの開発が進んでいる。たとえば歩行者や車などへの衝突・追突を避けるためにセンサーが働いて自動的に止まるような車の開発が進み、近いうちに実用化が可能になるともいわれているが、最終的には運転者自らが、その装置が確実に作動するように保守・点検し、かつ運転時に正しく操作するように心がけることが不可欠である。
 したがって、作られる物自体の安全性(上記の物理的安全性)を高めることと同時に、それを操作したり、使ったりする人間の側の確実・安全な取り組み意識を高め、かつ実行していくことも重要である。近年一般にいわれる「安全文化」とは、この後者を指すが、私はこれら両者を含めた取り組みを「安全文化」というべきであると考える。すなわち、安全意識や安全行動というヒューマン・ファクターとともに、作られた物自体の安全性(機械や道具の安全性、地球環境を悪化させない物づくりという安全性、食の安全性など)とともに、人間の安全への意識や行動の向上が高められることの両輪からなる「安全文化」が志向されねばならないといえよう。なぜなら、特に地球温暖化や環境汚染などの大きな環境問題の解決のためには、これら両面からの対策・対応をしていくことが必要不可欠であると考えるからである。

 最後に、本エッセイにおいて私が専門の心理学に関した事柄を取り上げようと考えたが、さらに本テーマを選んだ動機として2つのことがある。1つは、私が本学に赴任してから通勤のために利用している遠鉄バスの車内放送である、帰宅時に終点のJR磐田駅で下車する直前に「公共交通のご利用を通じてCO2削減にご協力いただきまして、有難うございます」というアナウンスである。2つ目は、磐田駅前からヤマハ発動機の会社までの従業員送迎用のチャーターバスが朝夕何本か運行されていることであり、多数の従業員がおり、各自が自家用車でなくバスを利用することも、CO2削減に役立っているであろう。このような取り組みは、全国的に他の地域ではほとんどなされていないようである。少なくとも、これまでに私が訪れた全国多くの諸都市やその近郊おいて目撃したことはない。したがって、このように地球環境を守るための生活や行動が全国に普及していくことが、自然ひいては人類に対する「危険文化」を減らすことになり、「安全文化」を高める礎になるのではないかと思われる。

 さらに車の排気ガスに関して敷衍すれば、我が国のみならず世界中の大都市圏において、毎日道路上が車で溢れ車の大洪水状態が出現している。世界中で車から排出されるCO2の総量は果たして一日どのくらいであろうか。地球や人類を守るために、ガソリン車に代わるクリーンなエネルギー車の開発・普及が強く望まれるゆえんである。
以上述べてきたような新鮮な感動を与えてくれた本学・本地域にて勤務できるようになったことは、私にとって望外の幸せである。

以上