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私の英語教員生活 -その変遷、夢と失望-


教授 須部宗生 (日英表現比較 小学校英語教育)

 いよいよ終盤に近付いた自分の教員生活をざっとここで振り返ってみたい。私の教員生活は大きく前半と後半に分かれる。前半は高校で、後半は大学で教鞭をとった。そんなわけで、私の教員生活は高校英語教員としてスタートした。と言っても、教員の生活に夢を抱き、憧れて教員になったわけではない。当時大学で英語学を学んだ後、修士課程で英文学を専攻していた私は、静岡県の英語教員採用試験を受けてみた。早く家に戻ってくるように、との親からのプレッシャーも感じていたし、結婚を約束していた女性もいた私はそろそろ潮時かなと思ったからである。受験準備をした記憶はまるでなく、何となく受かり何となく始まった私の英語教員生活ではあった。しかしそれは夢もない半面、実に順調で気楽そのものだった。その後転勤をし、いわゆる進学校で教鞭をとったが、英語を教えることで苦労した覚えはない。正直言って私の英語教員生活には拍子抜けの感さえあった。このままでは自分は退歩してしまうと感じた私は、通訳ガイド試験に挑戦し、営業許可を取得し研修にも参加し、ボキャブラリーコンテストやTOEIC試験でそれなりの高得点を取ったりもした。当時の私には英語教員としての専門性を高めるという夢だけは少なくともあった。しかしやがて私の高校英語教員生活もマンネリ化し始め、心のどこかで一種の失望と不満を感じ始めていた私は、連日徹夜マージャンをして女房子供にも迷惑をかけたりもした。

 しかしこの一見順調で、かつ内面的には自堕落な高校英語教師としての私の生活もある日を境に一変することとなるのである。きっかけは東京のある辞典会社からの一本の電話だった。その内容は、私が大学生時代、尊敬し、当時研究社英語大辞典の編集主幹であった小稲義男先生の推薦もあり、英語辞典編集を手伝ってくれというものであった。私はその後、来る日も来る日も何千何万何十万もの日英表現と格闘した。それは時間的にも体力的にもハードな作業ではあった。しかし辞典編集の仕事は精神的な満足感と充実感を私に与えてくれた。それは辞典編集をすることで日本の英語界および英語教育界に何らかの寄与ができ、足跡を残せるという確信だった。また編集部にいる大学時代の同級生や他の編集者との貴重な体験や意見交換も英語教員としての私の資質を進歩させてくれた。しかし時間的制約も大きく、研究自体を評価してくれない高校での英語教員生活は私には不向きなものと感じられた。

 やがて、この辞典編集の仕事がきっかけとり、私は現在の静岡産業大学情報学部の前身である静岡学園短期大学で教鞭と取り始めた。短期大学英語教員としての生活は今までの高校とは大いに異なり、週の授業の持ちゴマが3つと、かなり時間的なゆとりがあり私の辞典編集の仕事には最適なものだと感じられた。またここでは、私のこの研究活動自体を業績と評価し応援してくれた。唯そんな大学英語教員生活でも失望が皆無だったわけではない。その失望とは何かと言えば、私が大学には当然あると考えていた、サバティカル休暇(7年間の勤務中1回、海外で1年間の研究生活の権利が与えられる)の制度がなかったことであった。私は大学に移った暁には、サバティカル休暇を活用し、イギリスの誇るオックスフォード英語辞典やアメリカの誇るウェブスター英語辞典の編集を現地で体験し、辞書学の基本を学びたいとの淡い、密かな夢を抱いていたのである。だが私のサバティカルの夢も露と消え、その後当大学の磐田キャンパスに移った今、サバティカルどころではなく、大学教員生活も激変し、週7コマの授業があり、委員会の仕事も増えた。その後参加した何冊かの英和・和英辞典の編集やオンラインディクショナリーのメインテナンス作業も老齢の私の肩に重くのしかかり、最近は疲れを感じ始めている。それ故、終盤に近付いた私の残り少ない英語教員生活では、辞典の仕事は極力やめ、少なくとも年数本の論文だけでも作成して過ごそうとは考えている。またそれさえもできなくなれば、女房から勧められているように、潔く引退すべきだと考えている。なぜなら唯英語を教えているだけでは大学教員としてのアイデンティティが私には感じられず、そんな自分に納得できず、自分の生活に失望してしまうのが落ちだと考える今日この頃だからである。