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アメリカ・ドルの誕生


学部長 教授 松本幸男(アメリカ経済史、アメリカ金融史)

 アメリカ合衆国の貨幣単位は、周知の如くドルDollarです。それではなぜ、アメリカ合衆国はドルを貨幣単位とする貨幣制度を創設したのでしょうか。このテーマについては、すでに先行研究(*)があり周知のところですが、私の観点から先行研究を踏まえて以下説明しましょう。

 アメリカ合衆国は、もともとイギリスの植民地でした。したがって、北アメリカ植民地(13の植民地〔マサチュセッツ、コネチカット、ニューハンプシャー、ロードアイランド、ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルヴェニア、デラウェア、メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア〕)が採用していた貨幣単位は、イギリスの貨幣単位、すなわちポンド建て(ポンド-シリング-ペンス)でした。

 しかし、植民地は独自の貨幣を持つことが許されませんでした。それ故、植民地に流通していた貨幣は、イギリスの鋳貨の他にヨーロッパおよび西インド諸島から流入した外国貨幣(フランスの鋳貨、ポルトガルの鋳貨、スペインの鋳貨)でした。この外国貨幣の中でスペインの鋳貨が最も豊富で、北アメリカ植民地の人々に親しまれた貨幣でした。このスペインの鋳貨がスペイン・ドレラ銀貨でした。このドレラを英語でダラーDollarと呼びました。なお、日本ではダラーをドルと呼んでいます。そこで以下、スペイン・ダラーをスペイン・ドルと表記します。

 このスペイン・ドル銀貨は、平均して純銀388グレインを含有しており、イギリス正貨4.5シリングに等しいものでした。しかし、各植民地は、鋳貨不足を緩和し、鋳貨を引き寄せるために、このレートよりも割高に評価しました。スペイン・ドル以外の外国鋳貨についても同じような方法で交換レートが成立していました。18世紀後半、1スペイン・ドル銀貨は、ニューイングランド植民地(マサチュセッツ、コネチカット、ニューハンプシャー、ロードアイランド)およびヴァージニア植民地では6シリング、ニューヨーク植民地および北カロライナ植民地では32.5シリング、その他の4つの植民地では7.5シリングと評価されました。したがって、各植民地は本国のポンド-シリング-ペンスの貨幣単位を採用していましたが、各植民地においてはその価値は同じではありませんでした。このように北アメリカ植民地の幣制は複雑であり、計算貨幣は ポンド-シリング-ペンスでありましたが、その価値は各植民地において異なっていたのです。

 それではなぜ、スペイン・ドルが北アメリカ植民地に豊富に流通していたのでしょうか。北アメリカ植民地は、上述したように本国イギリスの植民地でしたので当然イギリスと貿易をしていました。この本国との貿易は常に輸出よりも輸入の方が大きいという貿易差額が一般的に逆調でした。そのために流入したイギリス鋳貨は支払いのためにすぐに本国に戻っていくというもので、イギリスの鋳貨すなわちポンド貨は、植民地の人々の貨幣的富の蓄積に繋がらず、かれらにとっては搾取される貨幣でした。しかし他方、北アメリカ植民地は、本国貿易の他に、南欧貿易および西インド貿易を行っていました。これらの貿易は、輸入よりも輸出の方が大きいという貿易差額が順調でした。これらの貿易の決済はスペイン・ドルでおこなわれました、その結果、スペイン・ドルが北アメリカ植民地に流入し、常時豊富に流通し、かれらの生活に溶け込み、かれらの交換手段となり、親しみの深い貨幣となりました。北アメリカ植民地の人々にとってスペイン・ドルはかれらの貨幣的富に繋がる貨幣であり、植民地の人々はスペイン・ドルにいわば国民的貨幣としての意識を持つようになったのです。

 このような歴史的背景の下に建国の父祖達は新興国アメリカの貨幣単位にドルを選び、現在のアメリカ合衆国の貨幣制度を作り上げたのです。以下、その経緯を少々説明しましょう。

 新興国アメリカの貨幣制度をどのようなものにするかは、独立革命の時に始まります。時の財務総監ロバート・モリスは、植民地時代から統一貨幣制度をもたなかった新興国アメリカにおいて統一貨幣制度が必要であると考え、植民地時代から親しみのあるスペイン・ドル銀貨を基準にした貨幣制度を考えました。かれは、銀本位制度、3.48%の鋳造料徴収、スペイン・ドルの1440分の1を貨幣単位とすること、これをユニットと呼ぶこと、1ユニットは純銀0.25グレインの価値をもつこと、十進法の採用、このユニットを基礎単位として100ユニットを1セントと呼び、純銀25グレインの1セント銀貨を鋳造すること、1セント5枚(500ユニット)を1クゥイントと呼び、純銀125グレインを含有するクゥイント銀貨を鋳造すること、さらに、1セント10枚(1000ユニット)を1マークと呼び、純銀250グレインを含有するマーク銀貨を鋳造すること、補助貨幣として、8ユニットの価値をもつ銅貨と5ユニットの価値をもつ銅貨を鋳造すること、前者をエイト貨と呼び、後者をファイブ貨と呼ぶこと、を内容とする貨幣制度を提案します。

 モリスは、スペイン・ドルの1440分の1を貨幣単位とすると、人々が慣れ親しんできた旧来の植民地の貨幣価値体系を混乱させることなく、少額の取引も端数なく換算できると言います。 また、モリスは、貨幣単位であるユニットは、貨幣に表象する必要はなく、価値がしっかりと確認できればよいのであり、貨幣単位であるユニットを実体鋳貨に結びつける必要はなく、貨幣単位であるユニットは、あくまでも観念的な貨幣でよいと言うのです。貨幣単位の価値は一定不変でなければならない。貨幣単位を実体的な鋳貨に結びつけてしまうと、実体的鋳貨は価値変動にさらされてしまうので、貨幣単位は永続的な価値尺度として機能しなくなる。それ故、貨幣単位は観念的度量標準でなければならない、とモリスは言うのです。ユニークな貨幣論を展開します。

 このモリス案に対してトマス・ジェファソン(後の第3代大統領)は、モリスの貨幣単位はあまりにも小さすぎる。通常の貨幣取引にそれを適用することは不便である。商業取引の計算において、また財産価値の尺度において貨幣単位が小さいことはやっかいな算術計算を伴う。それ故、貨幣単位は旧来のポンド建てと関連性を持たせる必要はない。貨幣単位は、国民に受け入れやすい単純なものでないといけない。国民はスペイン・ドルに慣れている。国民は、ドルを旧来の各植民地ポンドとシリングに転換することに熟達しているので、スペイン・ドルが便利な最適の共通尺度である。スペイン・ドルを基礎とするドルを貨幣単位とするのがよい、と言います。そこで、ジェファソンは、金銀比価1対15とする複本位制の採用、スペイン・ドルを基礎にしたドルを貨幣単位とすること、当時のスペイン・ドルの平均銀含有量を365グレインとみなし、それを貨幣単位とし、その単位の貨幣を鋳造すること、十進法の採用、10ドル金貨の鋳造、1ドル銀貨(純銀365グレイン)、20セント銀貨、10セント銀貨、5セント銀貨を鋳造すること、最少単位である1セントは銅貨とすること、金貨、銀貨の純度を12分の11とすること、という趣旨の貨幣制度を提案しました。ジェファソンは、旧来の各植民地ポン建てを取り除き、ドルを新貨幣単位とすることによって、独立宣言の起草者らしく貨幣の独立をはかろうとしました。

 このジェファソン案を継承する形で、ワシントン政権下の初代財務長官アレグザンダー・ハミルトンが、スペイン・ドルを基礎とした新しいアメリカ・ドルを創設し、これを貨幣単位とすること、金銀比価1対15の複本位制度を採ること、1ドル金貨の純度は純金24.75グレイン、1ドル銀貨は純銀371.25グレインとし、12分の1の合金を認め、標準金貨1ドルを27グレイン、標準銀貨1ドルを405グレインの重量をもつものとすること、自由鋳造制、十進法の採用、10ドル金貨、1ドル金貨、1ドル銀貨、10セント銀貨、1セント銅貨、0.5セント銅貨を鋳造すること、外国鋳貨を漸次廃止すること、を内容とする「国立造幣局に関する報告書」を、1791年1月28日、連邦議会に提出します。これを受けて連邦議会は審議をおこない、その結果、細かい点を修正して、4月2日、ハミルトンの提案通りの内容を持つ「造幣局・合衆国貨幣単位法」案が可決され、すなわち「第1貨幣法」が成立しました。ここにアメリカ・ドルに基づく新貨幣制度が誕生したのです。

 なお、おもしろい逸話があります。1795年に鋳造された1ドル銀貨の裏面には見目麗しい上半身姿の女神が彫られていますが、これは、当時、フィラデルフィアの社交界の花形であった美しいフィラデルフィアの大貿易商人ウィリアム・ビンガムの夫人アンをイメージしたものであると言われています。夫人アンは、上述したモリス、ジェファソン、ハミルトン等、当時の建国の父祖達と親交がありました。
(* Nussbaum, Arthur, A History of The Dollar, Columbia University Press, 1957.牧野純夫『ドルの歴史』NHKブックス、1965年。片山貞雄『ドルの歴史的研究』ミネルヴァ書房、1967年。田島恵児『ハミルトン体制研究序説』勁草書房、1984年。松本幸男『建国初期アメリカ財政史の研究-モリス財政政策からハミルトン体制へ-』刀水書房、2011年。)