8月6日(静大だより第73号 1983年7月より)


 ことしも夏がやってくる。私の生まれ育った広島の人々にとって忘れることのできな

い日、そして世界中の人々が決して忘れてはいけない日がやってくる。そうして、この

日は私にとっては、別な意味を持った日でもある。

 昭和20年8月6日午前8時15分広島に原爆は投下された。市内は一瞬にして廃墟

と化した。私の異母兄が3人死んだ。異母兄の母親も死んだ。親類縁者を挙げればきり

がないほど大勢が死んだ。本家は全滅した。父は戦地にいて被爆をまぬがれた。私の母

は、まだ父と結婚していず、広島県の郡部に居たため、やはり被爆をまぬがれた。もっ

ともそのおかげで、私がこの世に生を受けることができたのであるが。不幸中の幸いと

いっては変かもしれないが、姉2人と兄1人は、被爆はしたものの爆心地から離れてい

たため、生き残ることができた。その時の話を聞くと何か運命のようなものを感ぜざる

をえない。

 その日、上の姉2人(当時16歳と11歳)は、お使いで広島市郊外にミシンを運ん

で行くことになっていた。いつもはききわけの良い子だったのに、その日に限って、一

番上の兄(当時6歳)が、ついて行くとダダをこねた。こんなおチビさんについてこら

れると面倒と、2人はこっそり出発した。しかし、どこでみつけたのか、兄は2人を追

っかけて来た。それに気づいた2人は、急ぎ足でリヤカーを運ぶ。必死で追う兄。逃げ

る姉2人。いつもだったらあきらめて帰るはずの兄が、いつまでも追ってくる。とうと

う根負けした姉たちは、兄もつれていくことにした。かなりの間追いかけっこをしたお

かげで、すでに広島市の周辺部あたりにまで来ていた。その時、原爆が投下された。

 広島の人は原爆のことを「ピカドン」と呼ぶ。その名の通り、あたり一面が閃光に包

まれ、そしてすさまじい爆風が襲った。実家は爆心地より西に、1キロ以内の所にあっ

た。家におとなしく残った兄たちは、メチャメチャになった家の下敷きになった。弱々

しく、「おかあちやん、助けて!!」という声が聞こえてくる。兄たちの母は全身に被

爆したが、下敷きにはならなかっだ。小さな兄たちを助け出そうと必死になったが、ど

うにもならない。そのうち兄たちの声も問こえなくなったそうである。

 広島には七つの川が流れている。その一番西の川を渡った所にいた姉2人と兄は、被

爆したものの大事には至らなかった。もっとも、後になって下の姉は、一時毛髪が全部

抜け落ちたし、兄も何日も寝こんだという。数日後、2人は母と再会し、弟たちの死を

知った。生き残った親類縁者が寄り合い、肉親の死を悲しみ、互いの生存を不幸中の幸

いと、新しいスタートを切ろうとした。しかし、1人また1人と、体中に紫斑を出して

は死んでいった。母も数日後死んだ。最後の希望の灯を失い、2人が途方にくれていた

頃、父が復員して来た。もう少し父の復員が遅れていたら、3人は栄養失調で死んでい

たかも知れない。食べ物も何も無く、鉄道に生えている草まで食べたそうである。

 同じ8月6日午前8時過ぎに、私は生まれた。一年中で最も悲しい日に生まれたこと

になる。だから、誕生日といっても、特別なお祝いをしてもらったことがない。私の好

物のカレーライスを作ってもらうだけである。また、小さい項からいつも、「お前は3

人の兄の生まれ変わりだ」といわれ続けて来た。私自身も、何となくそのように思って

きた。自分の背には3人の魂が宿っているのだと。3年前、もう1つ魂がふえた。一番

上の姉が肺ガンで死んだのである。五十歳であった。ガンの家系ではない。兄も、自分

の寿命は50歳と思っているようである。そのためか、毎日を全力疾走のように生きて

いる。今年で46歳である。

 毎年8月6日になると、全国各地から、いや世界各国から、様々な人々や団体が広島

に集まってくる。そして平和記念式典が開かれる。午前8時15分になると1分間の黙

祷をする。市内一帯にサイレンが鳴り、市内電車も止まる。夜には慰霊の灯篭流しが行

われる。美しくも悲しい夏の風物詩である。市内の七つの川が赤青黄の灯篭で埋まる。

数10年前、水を求めた被爆者で埋まったように。

 平和公園にある原爆慰霊碑には、「安らかにねむって下さい、過ちは2度とくり返し

ませんから」と刻んである。われわれは本当に過ちをくり返さないのだろうか。広島の

歴代市長は、平和記念式典で平和宣言を読み、また原水爆実険が行われるたびに、抗議

電報を打ち続けている。その反面、軍備費はうなぎ登り、非核三原期も一体どこへ。6

月のサミット然り。今、日本は、いや世界全体が、とても恐ろしい方向に進みつつある

ような気がする。

 今年も8月6日がやって来る。今自分に何ができるかを、もう一度考え、少しずつで

も実行したいと思う。


山本和明教授のホームページを経由して、
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